きりかノート 3冊め

おあそびプログラミング

「伽藍、バザール、ノウアスフィア、おなべ」シリーズをみんなぜひ読むべき

artonさんの「伽藍、バザール、ノウアスフィア、おなべ」シリーズがすごくおもしろい。

多くの人が「伽藍とバザール」「ハロウィン文書」の名前くらいは聞いたことがあると思うけど、実際に全部読んだ人は少ないと思う。「伽藍とバザール」はともかく「ハロウィン文書」はすげー長いし。これらのエントリは、"伽藍"にはじまる一連の文書の概要とその意味、現代から見た評価について書かれている。

このシリーズのおもしろさのひとつは、バランスよく書かれているところ。この手の話題はオープンソース陣営のスタンスから語られることが多いけれども、ここではそういうことがない(少なくともおれはそう感じる)。

以下、引用しつつ感想とか。

伽藍とバザール

おそらく、伽藍=プロプラエタリ、バザール=オープンソースという誤解をしている人がいるかもしれない。だが、オープンソースという言葉は、この時点ではまだ存在しきっていない。したがって、そもそもそういう対比ではないのだ。

わかりやすく、21世紀現在の言葉で、伽藍とバザールという対比を現実社会に当てはめると、もっとも近いものは、ウォーターフォールvsアジャイルだ。

最後にNetscapeの話がでてくるけれど、基本的にこの論文はコミュニティで開発されるソフトウェアの開発スタイルついて語られたものだ。あらためて読んでみると、たしかにアジャイルの話とも読めるなあ。頻繁なリリース、ユーザの参加、チームビルディングなどなど。

「ノウアスフィアの開墾」

ここで一番重要な言葉が『優しい独裁者』だ(と思うのだが、初出は別かも知れない。ただ、『ノウアスフィアの開墾』で『優しい独裁者』がクローズアップされていて、それは『伽藍とバザール』の時点ではなかったものだ)。

この論文のテーマは、なぜハッカーはソースをオープンにするのか、なのだが、内容はむしろ、「なぜオープンソースは、ソースの自由な改変を許すライセンスなのに、改変したソースが元に戻るのか?」の解明に軸足がある。

推測だが、ネットスケープをはじめとする企業が自社のコードベースをオープンにした場合に、そこから知らないうちにフォークされてもっとうまいことされるのはすごく嫌がるだろうと考えて、そうではなくハックされて戻って来るよ、ということを説明しようとしたのだと思う。

現代における贈与文化であるオープンソース活動がなぜ成立するのかの分析。今的にいうと「評価経済」の話。

自分は21世紀になってからオープンソース活動に手を出したクチなので、なんとなくフィーリングで受け入れたまんまあんまり考えたことなかったし、読んでも「まあそんなもんかなあ」という感じで腑に落ちるとも落ちないともいえないなあ。確かに、実際に可能であるにもかかわらず、プロジェクトがforkしてそちらが主流になることってあまりないよね。ただこれからからのことを考えると、ここ数年で「最初からGithub」な世代がでてくるわけで、彼ら|彼女らがどのように行動するかってのは無責任に興味あるな。

ちょっとずれるけれど、オープンソースプロジェクトの実践的な話としては、「オープンソースソフトウェアの育て方」がおもしろいのでこちらもオススメ。"4. プロジェクトの政治構造と社会構造"が、ここでは関連が深いかな。

「ハロウィン文書」

なげーよ!11本もあるじゃん、、、

この点について、翻訳した山形浩生は「この文書はちゃんと戦略というものを明文化し、それを組織的に共有しようという明確な意志があらわれている。そしてそれにはちゃんと実効性があり、(少なくともこの組織にとっては)きわめて有益な代物となっている。 」と、あえて説明を入れていて、ハロウィン文書そのもののうまさを読み取れない人のために、見るべき点をきちんと解説している。

ということでハロウイン文書の全部をふつーの人は読む気しないだろうから、せめて山形氏の解説だけは読んどく。

さて、15年後の現在視点でハロウィン文書を見ると、実はこの文書でのマイクロソフトの分析が、「俗流/おれおれ/伽藍とバザール」の元ネタになっているんじゃないかなぁにやにやということに気付かされる。

つまり、ハロウィン文書の分析では、伽藍モデルのFSFは最初から念頭にない(というのは、そのモデルは彼らがこの時点では叩き潰したIBMスタイルと変わらないからだし、いずれにしろHURDは存在しないから相手にしてもしょうがない)。そのため、伽藍とバザールのレジュメと、ハロウィン文書のレジュメだけを見ると、ハロウィン文書では敵としてバザール開発モデルについての分析しかしていないために、伽藍=マイクロソフト、バザール=OSSという2項対立と誤解するのだろうと推測できるのだった。

"伽藍=マイクロソフト、バザール=OSS"というのは明らかに誤りです、ハイ。

うん、ひととおり斜め読みはしたけど、やっぱ全部ちゃんと読むのは無理だわ。SCOの件とか今となってはどうでもいいしさ。ここのコンテキストとしてはIとIIの話が中心なので、IVからあとは読まなくても問題ない。
ただまあ、I..IIIあたりはちゃんと理解したいけど一人だと読む気がしないので、飲みながらぐだぐだと語りあう会とかあるといいなあ。

「魔法のおなべ」

『魔法のおなべ』には微妙なところがある。というのは、オープンソースのビジネスモデルについて論じたこれは、他の2本よりも歴史の流れで古びた点が多いのだ。1999年というのは、コンピュータビジネスによっては本当に過去のことなのだ(それに比べると、開発方法やオープンソース参加者の意識のような人間系あるいは文化的な考察がほとんど古びないことと対称的だ)。

この論文は最初に経済価値の2つの価値−−利用価値と販売価値という観点から、ソフトウェアは製造業的な材つまり販売価値を持つものではなく利用価値を持つ財だというところから始める。

エリックレイモンドは、利用価値を売り物にすることで、ソフトウェアをオープンソースにして開発費用を外だしするというモデルを示しているのだけれど、時代が変わった結果、価値は「ビジネスモデル」(あるいは課金スキーム)に移ってしまい、そのノウハウがソフトウェアにこびりついているために、オープンにすることはありえなくなってしまったのだ。

ただ、誰もすべてをオープンにしろとは言っていないわけで、このインフラはオープン、アプリケーション(ビジネスモデル)はクローズというのが、現時点の答えなのだろうなぁとは考えつく。

「魔法のおなべ」はオープンソースにおけるビジネスモデルの話なんだけど、議論としてはオープンソースに限らず、ソフトウェア開発のビジネスモデルとして論じることもできてるのがおもしろいところ。

今だとソフトウェア全体でなくってAPIとクライアントライブラリ(またはクライアントアプリ)を公開するって手法が成功してる感じだよね。DropboxとかEvernoteとかほかにもいっぱい。

と、そんな感じだ。というわけで、Matzや笹田さんや中田さんのレベルを目指すか、iTSやPlay(だっけな)あと、WindwosPhoneのやつを利用しましょう、というのが就職しない開発者に対するお金の稼ぎかたの結論。

herokuのやり方が十分に有効、経済的に見合うものって理論がでてくると思ってるので、それがどういうものになるかちょい楽しみ。

あと、後者のやり方って、今のiOSの課金モデルだと少数のアプリを改善し続けることでは収入が続かないんじゃないかって疑問がずっとあるんだけど、その話はまたあらためて。

とりあえず、インターネットを通じた小額決済が、あまりにも重要なインフラだということだけは言える。

うん、そっちの経済がもっと大きくなるような未来だとおもしろいと思うのです。

ということでここまで。